千日回峰行の峰道を歩きます。

スタートは叡山電鉄八瀬比叡山口駅です。ここに駐車して、叡山ケーブルに乗ります。ケーブル比叡駅までは約10分です。

北山1の標識があり、ここから北山東部コースのトレイルを歩きます。北山24・大原戸寺までです。

林道を40分ほど歩くと、北山6の標識の所に延暦寺東塔エリアへの分岐があります。まずは東塔エリアへ。

弁慶水前を通り、間もなく参拝受付です。ここで700円の参拝料を支払います(3エリア共通です)。

比叡山への正式な参拝は、坂本にある日吉大社脇の登山口から、本坂という道を1時間30分歩きます。 (こちら側にもケーブルがあります。)

京都(八瀬)は裏玄関、滋賀(坂本)が表玄関ということですね。

延暦寺の住所は滋賀県大津市坂本本町です。京都ではありません!と、滋賀の住民の方はおっしゃいます。

延暦寺は東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)エリアからなります。

東塔は表玄関、西塔は修行の場、横川は修行を越えて、自分で強学をするところです。

このお寺は観光寺ではありません。売店もあまりないです。ただ、外国からの観光客も多くなり、 この2、3年で道案内の看板も立つようになったそうです。

標高は670mあり、下界より3~5℃低いため下界では桜が満開でも雪が降ることもあります。

「論湿寒貧(ろんしつかんぴん)」

比叡山の厳しい修行風景を言い表したことばです。

仏法を論じ、夏のひどい湿気と冬の厳寒に耐え、しかも清貧(せいひん)に甘んずるという意味です。

延暦寺は教育の場でもありました。鎌倉時代にここを巣立ったお坊さんが各宗派を立ち上げています。。

真盛上人は真盛宗、法然上人は浄土宗、道元禅師は曹洞宗の開祖ですね。

天海大僧正(てんかいだいそうじょう)慈眼大師 ( じげんだいし)は 徳川家3代に仕えた方です。参勤交代などを考案された、家康の知恵袋でした。 延暦寺と徳川との中継ぎをしていました。焼き討ち後の再建も、この方が口をきかれたそうです。

ある意味、天台宗はゆるかったので、何でもオッケーでした。それぞれのお坊さんはここで修業をし、 「自分はこれだ」と一派を立ち上げた方が多いです。

これに対峙していたのが弘法大師空海です。空海はあまりそういうことに力を入れていなかったようです。

延暦寺と園城寺(三井寺)とは同じ天台宗です。三井寺はもともとは大友皇子(おおとものみこ)を祀っていましたが、 さびれてしまいました。それを再興したのが、延暦寺で修行をした智證大師(ちしょうだいし)、円珍です。

延暦寺と三井寺の仲が悪かったのは、円珍さんの死後、 円珍派と慈覚大師円仁派との対立が激しくなり、円珍派が三井寺に移ったからです。 円珍派は円珍の木造を背負って山を下りたそうです。

三井寺を寺門派、延暦寺を山門派の天台宗といいます。

萬拝堂は世界宗教会議の時に寺社の勧進をして建てられた建物です。千日回峰行のお坊さんはここで手を合わされます。

最澄が大黒を祀り発展を祈った場所が大黒堂です。

2026年まで根本中堂は修理中のため、御朱印は萬拝堂で頂きます。

延暦寺会館は昔の宿坊です。修行体験や、精進料理が頂けます。

大書院は、迎賓館のようなもので東京の煙草でお金を儲けた人の別荘だったそうです。

もともと日吉大社が祀られていたところに、当時は新興宗教であった天台宗が入ってきました。 天皇が天台宗に力を入れた結果、日吉大社は天台宗の守り神だということになりました。 日吉大社は延暦寺とともに発展したのですね。これは伝教大師最澄が神仏習合・本地垂迹を説いて 神と仏がともに社会のために役立たなければならないと主張したことからです。

明治の神仏分離で分かれるまで、日吉大社ではお寺の行事もやっていたそうです。 廃仏毀釈で日吉大社にあるお寺関係のものは燃やしてしまったそうです。

比叡山が興ったのは日吉大社に近いことは関係なく、最澄がこの山に籠って、 785年に薬師如来を本尊とする一乗止観院(いちじょうしかんいん)というお堂を立てたのが始まりでした。 ここは京都御所から見て北東、鬼門にあたります。 桓武天皇の勅願で国家鎮護の道場となり、最澄に託しました。天皇家と密接なつながりがあったんですね。 空海はそういうことにあまり縁が無く、一般の人を対象としました。

坂本から本坂を来ると、「文殊楼」に出ます。

文殊楼は比叡山全体の山門です。 山門で楼と名前が付いていたら、2階建の建物です。 2階に文殊菩薩様が祀られています。円仁が創建しましたが、1668年の火事で焼失し、その後再建されました。

1階は唐風、2階は日本の建築になっています。拝観するには梯子のように急な階段を上り下りしなければなりません。

合格祈願の絵馬がたくさんかかっています。

本尊は坐像で、両脇は童子の像です。

根本中堂は補修工事中です。2026年までかかる予定です。目的は耐震性の向上だそうです。

覆い屋根で見えませんが、延暦寺の案内写真はここから紅葉、桜とからめて根本中堂を撮った写真が多いです。

根本中堂は天台宗の根本となるお堂で、幅は38m、高さ24mあります。1571年の焼き討ちの後、1641年に再建されました。

中に入ることはできますので、靴を脱いでお参りします。

回廊が左右にあります。回廊からの入口に唐破風があります。

欅の柱は76本あります。 再建の際、徳川家光が各大名に一国一本最高の欅を供給するようにと指示を出し、集めたことから「大名柱」と呼ばれます。 ひび割れするのを嫌い、割って中をくりぬき、タガをはめてもう一度丸くしてあるそうです。

天井には草花の絵が描かれています。「百花の図」といいます。 これも大名からの寄進で、仏様に花を絶やさないようにとの意味があるそうです。

本尊は厨子の中にいらっしゃいます。薬師如来様で、秘仏です。 伝教大師が彫られたといわれています。

前立様の前に灯火が3つあります。不滅の法灯といわれるものです。 最澄が788年、一乗止観院を造った時に灯した火が、1200年間消えることなく輝き続けているそうです。

中に菜種油が入っていて、芯はイグサです。油を注ぐのを忘れると火が消えるので、油を断つのは大敵、「油断大敵」という 言葉はここからきていると延暦寺様は説明されています。 油が切れると火が消えるので、気が付いた人が油を注ぐそうです。横からじょうろみたいので入れます。

外から外陣、中陣、内陣に分かれ、内陣は土間になっていて3mほど低くなっています。 何故かというと、中陣の参詣者が仏を眺めた時に同じ目線になるようにするためです。 天台様式といわれます。横川でもこうなっています。 本来の天台宗はこういう造りをしています。皆平等という、最澄の考え方からきているとか。

三井寺も内陣は2mほど、低くなっています。ただ、移築したりした建物はこうなっていないことも多いです。

根本中堂は、東塔、西塔、横川を含む延暦寺全体の本堂です。 本堂という名前の建物はありません。それに相当するのは中堂ということになります。

延暦寺の役職としては探題(たんだい)、已講(いこう)、擬講(ぎこう)、僧職としては大阿闍梨、阿闍梨などの身分があります。 一山を支配しているのは探題です。

大講堂では、4年に1度、法華大会を行います。その時に已講が、僧侶の資格試験を行います。 出題者、已講は、どんな問題を出そうかと思案しながら大講堂への坂を登ったから「已講坂」と呼ばれています。

昭和31年、大講堂は火を付けられ全焼してしまいました。もとは基壇のところまでの大きさで、3分の2になってしまいました。 再建にはお金がかかりなかなかできません。この近くの日吉東照宮(日光東照宮のモデルとして作られた) にあった讃仏堂を移築し、昭和39年にできました。

法華大会では、10月1日から7日間、お経についての講義があります。

その前年に已講に昇進した人が高座に座って、お坊さんたちに講義をされます。

中日4日に、「三方出会」が大講堂の広場で繰り広げられます。

「探題」と「已講」「勅使」が三方から出会い、それから入堂されるという、平安の昔から伝えられている法要儀式です。

勅使は桓武天皇と契りをむすんだときの御物の確認に来られるそうです。

この石が、三方出会の位置合わせの石です。

三方出会いの儀式の前には、大講堂の周りを、盛装をした100名のお坊さんが、お経を唱えながら回るという「大行道」の儀式もあります。

サンガを散らし、拾った人には福が来るそうです。

これが終わると、法華経の試験が行われます。問答があり、うまく答えられたら合格です。 不合格者は昔は竹の杖1本を渡され、追放されました。本坂を下りていったそうです。 前回は230人あまりが受験されました。今では不合格者はいないそうです。

大講堂には大日如来が祀られており、一派を立ち上げたお坊さんの像や肖像画もあります。

戒壇院(かいだんいん)は、僧侶の免許の認定所のようなものです。

平安時代、戒壇院で戒を授からないと僧になれませんでした。この場合の僧とは国家僧です。年間5、6人しかなれなかったそうです。

当時、戒壇院は奈良、九州、関東にしか無く、最澄が戒壇院を作りたいと朝廷にお願いしましたが、 自分たちの権益を守るためでしょうか、奈良東大寺が反対しなかなか許可が下りませんでした。 当時の天台宗は新興宗教だったからということもあったかも知れません。

最澄が822年に亡くなって7日後に許可が下りたそうです。

天台宗の僧(私僧・しそう)でなく、国から給金を貰える立場です。最澄をはじめ、有名なお坊さんはたいてい戒壇院を出られています。

中には仏像があり、その前で誓いを立てます。その誓いを一山の長が認めて朝廷に申請し、初めて国家僧になれました。

このあたりの石垣は穴太積みです。穴太衆は織田信長の安土城に城郭を作ったことで有名ですね。 この石は自然石で、比良山、比叡山から運んできた野石が使われています。 重心が前から3分の1の所にあり、下の石と上の石には隙間が空いていて、振動が起こると動く余裕があります。 隙間を埋めるために小石を入れています。 腐らないので松の枝を敷き、砂利を入れてその上に石を積んでいます。

もともとこの辺りは穴太の本拠地で、穴太村が南側にあります。祖先は朝鮮系の人達だといわれています。 祖先を祀るとき、石室で墳墓を作ったのですが、その技術が受け継がれてきたのです。 この近くに、古い豪族の遺跡があり、石が積んであるそうです。

法華総持院の阿弥陀堂への階段の数は52段あります。 仏になる為のステップは52段あるそうで、ここからきているそうです。奈良の興福寺の階段も猿沢の池から上ると52段あります。

阿弥陀堂は、昭和12年に建った比較的新しい建物です。滅罪、先祖供養の堂で、どの宗派も問わず受け付け、毎日法要されています。 真正面に金ピカの阿弥陀様がいらっしゃいます。

この阿弥陀如来様は座っていらっしゃいますが、立った時に4.8mあります。 仏は身長が1丈6尺 (約 4.85m) あるといわれることから仏像も「丈六」を基準としています。それより大きな仏様を大仏といいます。 水琴窟があります。きれいな音が聞こえます。下に壺があり、音が出る仕組みです。

阿弥陀堂の横には東塔があります。東塔地域にある「東塔」です。 仏舎利塔ですので、本来なら釈迦の骨を納めるのですが、代わりに水晶とお経が納めてあります。

中の仏さまは胎蔵界の印を結んだ大日如来様です。大日如来は如来の中で最高位の方です。

これから西塔に向かいます。

比叡山山頂(大比叡)への道と分かれます。

湧水が出ていて、弁慶水といいます。山の頂上なので、水源が少なく、ここしか無いそうです。 京都トレイル北山6の標識に戻ってきました。橋を渡ります。

山王院は、円珍の住坊でした。今は坐禅堂になっています。

弁慶がここに毎日花を捧げに通ったといわれています。 弁慶は西塔にある武蔵坊に住んでいたそうです。

ここには千手観音がいらっしゃいます。1600年以降のものです。

浅井・朝倉と信長の間にいさかいが起こり、延暦寺は浅井の味方をしました。 延暦寺は信長のいうことを聞かなかったのです。

浅井は延暦寺にテコ入れしていたんですね。じゃあ火をつけろということになってしまいました。

湖東三山も焼き討ちされています。織田信長は、いうことを聞かないとみんな焼き討ちしました。天下を取るために。

織田信長による焼き討ちで、延暦寺では瑠璃堂だけが残ったといわれていますが、定かではないそうです。 焼き討ちでは、3000人が殺されました。坂本に火をつけられ、山に逃げたところに明智光秀が待ち構えていたそうです。

ただ、横川を守っていた豊臣秀吉がお目こぼしをして助かった人もいたそうです。

豊臣秀吉はいい人だった?いい加減だった?んでしょうね。

ここは、延暦寺の中で一番聖なる場所、浄土院です。伝教大師最澄の御廟があります。

浄土院には、12年籠山行をされている僧がいらっしゃいます。侍真(じしん)と呼ばれます。 朝昼、伝教大師のお食事を作り、供え、お下がりでご自分が食事をされます。1日2食です。 あいだの時間に坐禅や勉学、読経をされます。就寝は22時です。

世間とは隔絶されていて、テレビも電話も無いです。支える小僧さんはいらっしゃいます。

今で8、9年目の方がいらっしゃるそうです。 ただ、基本は12年なのですが、次の人が来ないといつまでも続けなければならないそうです・・。

これだけ静かな所だから、籠っている方は枯れ葉一枚落ちてもわかるようになるそうで、枯れ葉1枚落ちていません。 この行は掃除地獄とも言われ、時間があれば境内や道場内の掃除をされています。

これが最澄の廟。香炉で時間を計っているのでしょうか。

12年籠山行に入る資格を得るためには、毎日、 3千の仏様の名前を1仏1仏唱えながら、五体投地、すなわち両肘・両膝・額を地面に伏して礼拝します。 (15時間以上かかるそうです。)この行にて仏を体得した人(仏が見えた人)が入れるのです。早い方で6か月、3年かかる方もいます。

千日回峰行も終えると大阿闍梨の地位が与えられます。 千日回峰行は7年かかります。5年が終わると9日間の断食・断水・不眠・不臥の「堂入り」に入ります。 これが終わると阿闍梨になり、加持をすることができます。さらに京都など2年間回って満行となります。

行者道を歩きます。下りると椿堂があり、ここからが西塔と呼ばれるエリアです。 椿堂は、聖徳太子がここの霊気に感銘を受けて、堂を建て、 持っていた椿の杖を刺したところ椿が茂ったことからきています。 ここも坐禅堂です。

左が常行堂、右が法華堂です。左右対称の造りになっています。 弁慶が真ん中に肩を入れて持ち上げたということで、天秤棒になぞらえて「にない堂」です。 当時からうまいことキャッチフレーズを作っていたんですね。

常行堂は、常行三昧という、90日間お経を唱えながら阿弥陀様の周りをぐるぐる回る修行をするところです。 仮眠をとるときは紐にぶら下がってもいいのですが、横になっていはいけない修行です。食事とお手洗いはオッケーです。 法華堂は常坐三昧といって、90日間坐禅をし続ける修行をするところです。

釈迦堂は、西塔の中心です。谷にありますね。谷の方が建物を造るのが楽なので、延暦寺では大きな建物は谷にあります。 ただ、観音菩薩様を納めた堂は山の上にあることが多いそうです。例えば、清水寺は山の上にありますね。 山の上に建てると、どうしても片側につっかえ棒がいります。それが舞台造りです。「懸造り」ともいいます。

屋根に菊の紋があります。菊の紋はもともとは延暦寺の紋でした。 古来から坂本菊といって食用菊を植えていたので、それをモチーフに寺紋にしました。 天皇家が「これいいな。」と持って帰られ皇室のご紋になりました。 延暦寺は差し上げたと、おっしゃっています。

違いは、延暦寺の方は、菊の紋の真ん中に梵字が入っているところです。座主の乗用車にもこの紋がついています。

釈迦堂は延暦寺の中で一番古い建物で、三井寺の金堂を移築しました。1347年、鎌倉期に建てられたものです。

屋根の形が非常に優美です。

豊臣秀吉は、三井寺を取り潰しました。理由は色々といわれています。

秀吉は甥秀次に豊臣家を継がせようとしていましたが、 淀君との間に自分の子供ができ、子供に相続させたくなったため、秀次が邪魔になりました。

秀次は八幡城の城主で、京都へ赴く際に三井寺に寄ることが多かったことを利用し、 三井寺で豊臣を倒す企みをしていると濡れ衣を着せ、秀次を高野山で自害させ、三井寺を取り潰したとか。

他の説は、醍醐の花見の時、三井寺の桜を献上するように 言いましたが、嫌だといわれた恨みがあって取り潰したともいわれています。

取り潰したときに、三井寺にあった金堂を延暦寺に移しました。

1598年、秀吉が亡くなる7日前に、北政所に三井寺を再建してくれと遺言し、徳川家康の協力もあって復活しました。

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