熊野古道・伊勢路第1回目

熊野古道・伊勢路のスタートは伊勢神宮からです。

外宮先拝が正式なお参りのしかたとされており、正宮2社、別宮14社を含め、摂社末社所管社を合わせて125社を「神宮」といいます。 お社は伊勢近郊に多いですが、三重県内の4市2郡に分布していて、一番遠い別宮は大紀町にある瀧原宮で、皇大神宮の重要な別宮です。

内宮について

ご祭神は天照皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)様です。皇室の御祖神で、日本人の総氏神です。

今の天皇は神武天皇から125代目となります。2月11日の建国記念日は神武天皇が橿原神宮で即位された日です。

皇居は、もともとは奈良の桜井近辺にあり、天照大御神も天皇のお住まいにお祀りされていました。 しかし、第10代天皇の時代、疫病が流行り、天変地異もあり、神と天皇を一緒に祀っていることが畏れ多いからだと、桜井の近く、笠縫邑(かさぬいのむら)に 神籬(ひもろぎ)を立てて大御神をお祀りしました。

この、磯堅城(しかたぎ)の神籬(周りがをきれい整られた、神様が降臨する依代)はまだ現存しています。

第11代垂仁天皇の時代、皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神により相応しい場所を求めて、伊賀、近江、美濃の国をめぐり 伊勢国に入られ五十鈴川のほとりへ来た時に、天照大御神が 「この神風の伊勢の国は、遠く常世から波が幾重にもよせては帰る国である。都から離れた傍国ではなるが、美しい国である。この国にいようと思う」 と言われて、約2000年前に鎮座されました。このご巡行の伝承地は、今では元伊勢と言われています。

外宮について

さて、御鎮座から500年過ぎたころ、天照大御神が第22代の天皇の夢枕に現れ、 「食事もとりたいしひとりでいるのも寂しい。天橋立の籠神社(このじんじゃ)にいらっしゃる豊受大御神を呼んでください。」とおっしゃいました。

こうして豊受大御神様は、天照大御神の御饌都神として御鎮座されました。 (天照大御神様は500年の間、ひとりさみしくごはんも食べずに、かわいそうでしたよね。)

外宮では、朝晩の神様へのお食事を1500年の間、1日に2回お供えしています。 これが、「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」と言われるお祭りです。 ここで言うお祭りとは、お供えをし、その前で祝詞をあげることで、私たちの考えるお祭りとは少し違うようです。

神様のお食事

神様のお食事は、日本食の原点である米・水・酒・季節の野菜・果物・魚介類・海藻・塩などで、 ほとんどが神宮の自給自足でまかなわれており、この近くの二見の海岸には御塩田があります。 鯛は三河に、神宮の鯛を専門に調理する場所があります。

それでは外宮から内宮へ歩きましょう

(本日は時間の都合で外宮の参拝はできませんでしたが、説明は記載します。)

外宮は左側通行となっています。そして、手水舎(てみずしゃ)が左にあります。

古来は人々はお参りの前には近くを流れる宮川(の支流)でみそぎをしました。今は手水舎で簡易的なみそぎをするのですが、 外宮では、宮川が左手に流れており、そこでみそぎをしたことから、その名残で手水舎も左側にあり、左側通行となっています。

内宮では、五十鈴川は右手にあるから右手に手水舎があり、右側通行となっています。

また、橋は中心を歩いてはいけません。そして、神様から少しでも離れて歩くようにします。外宮では右手に社殿があるので、左側通行なんですね。

手水舎でのお清めのしかたは、柄杓に一杯水を汲み、左手、右手、口を清め、もう一度左手を清めて最後に柄杓を立てて水を流し、自分が持った部分を清めます。

火除橋は名前の通り、手前で起こった火事が(昔はぎりぎりまで民家が建っていましたので)燃え移らないようにかけられた橋で、内宮にもあります。

橋を超えると、第一の鳥居があります。神宮の鳥居は、ヒノキを削ったそのままの素朴な鳥居で「神明鳥居」と言われます。

地面に穴を掘りくぼめて礎石を用いず、そのまま柱(掘立柱)を立て地面を底床とする建築様式で造られています。

この鳥居には榊が付けられています。榊は常緑樹ですので生命力があり、勢いがあること、 栄えるという意味もあることから神様にふさわしい木として、神事に欠かせないものとなっています。また、境になる木という意味もあります。

伊勢市駅を下りてすぐの鳥居には、榊はないです。また、内宮の宇治橋の両側の鳥居にも榊はついていないですね。

その先に第一の鳥居あります。鳥居に榊があると、ここからが神域という意味を持ちます。

外宮の第一の鳥居の後に見えてくる建物は、左が行在所(あんざいしょ)、天皇や勅使の方が休憩されあるところです。

右の建物が斎館(さいかん)、毎日の神様への食事を持っていく神職が身を清め参籠(さんろう・心身を清めるためのおこもり)する場所です。

皇室の方がお参りされる時、車で参道を走られます。行在所手前の門は、敷居が外れるようになっていて、そのまま車で入れます。 そして、第二の鳥居からは皇族の方も車から降りて歩かれます。

神楽殿ではいつでも、御神楽をあげてもらえます。お神楽は神様と私たちをつないでくれるものです。 普通のお神楽は15000円以上、特別大大神楽は50万円以上のお志が必要ですが、値段に応じて?衣装も違いますし、男性の舞いもあります。 いつでもここで受け付けをしています。お願い事があればぜひどうぞ。

榊があり、小さい石が白い石の上に三つあります。あちらは、四至神(みやのめぐりのかみ)で、外宮の東西南北、四隅をお守りしています。 神様は天から降りてきて、石、木、岩に宿られると言われています。

こちらが古殿地で、先の遷宮の前はこちらに社殿が建っていました。式年遷宮では、社殿も神宝も一から全部作り変えます。

出雲大社のように10年に1度、屋根だけ替えるお社などはありますが、全部建て替えるのは神宮だけです。

690年に第1回の遷宮があり、前回で62回目です。準備にはなんと、8年かかるそうです。こんなに大変なのに、なぜするのでしょうか? 20年たつとやはり社殿は古くなり、萱葺きの汚れも目立ってきます。汚れた所に神様にいていただくと、神様の力が古くなると考えられました。 常に新しくみずみずしいエネルギーに満ちている神様であってほしい、そしてお参りをする私たちがその力を頂く、 これが「常若(とこわか)」という神道の考え方です。

正殿、屋根の上に丸い柱が見えます。あれを「鰹木」といいます。金色に光って、太陽があたるととてもきれいです。 外宮は9個あります。外宮の別宮やお社では、社殿の大きさによりますが、7個や5個で奇数となっています。内宮正殿は10個、別宮やお社は偶数個になっています。 また、Ⅴ字に屋根から出ている木、「千木」の先端が地面に対して垂直に切ってあります。これを外削ぎと言います。千木には風穴が、外宮では2つ開いています。

神宮の建築様式は、「唯一神明造」と言い、 高床式で弥生時代の穀倉を社殿風に変えたものと言われています。

正殿の右手奥の建物が「御饌殿(みけでん)」で、神様がお食事をする所です。後からご案内する、忌火屋殿から食事を運びます。 御饌殿の階段は一本の木をくりぬいて作られています。

階段を上がり、扉を開けて、お食事を六座分置きます。天照大御神、豊受大御神、一緒にお祭りされている神様の分ですね。下におりて祝詞を上げます。 だいたい30分ほどかかるそうです。ここでは、天皇家の安泰、国民の平和、五穀豊穣を神職の方が私たちの代わりに祈って下さっています。 神宮にお参りするときには、感謝の気持ちでお参りして頂くと良いですね。

天照大御神様も、内宮からこちらに来て食べられます。

内容は上記したように日本食、お水も神域内で汲んで、火も古式にのっとって熾します。

右手にある池は、もとは宮川の支流でしたが、地震で寸断され、池になりました。 ここは河原祓所(かわらのはらいしょ)と言い、注連縄を張られた三つ石があります。遷宮諸祭のお祓いはここで行われます。 遷宮の前、作り替えられた神宝と一緒に、神職が並んでお清めする場所です。 714種1576点ある宝物も作り変えます。こういった技術の継承の為には、20年に一度の遷宮が必要です。

外宮には4つの別宮があり(わけみやとも言います)、歩いて10分くらいの所に月夜見宮があります。

外宮で一番重要な別宮は、豊受の大御神様の荒御魂(あらみたま)を祭っている多賀宮です。

荒御魂とは、神様の性格の一つで、行動的で願い事をより聞いて頂ける荒々しい部分を指します。 ほかにも和御魂(にぎみたま)など、4つある御魂が神様を構成していると言われています。

土宮(つちのみや)は、宮域の地主神を祀るお社です。もともと東を向いて鳥居が建っていたので、当時のまま東を向いて立っていらっしゃいます。

風宮(かぜのみや)は、内宮の風日祈宮(かざひのみのみや)にも同じ神様が祀られています。

ここで天孫降臨のお話をしますと、高天原から天照大御神様のお孫さん、邇邇芸命(ににぎのみこと)が降りてこられる際、天照大御神様が、 三種の神器、八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・草薙剣(くさなぎのたち)を邇邇芸命に持たせて 日本を治めて来なさいとおっしゃいました。

邇邇芸命は宮崎の高千穂峡に降りられ、これが日本という国の起こりだと言われています。

天照大御神様は、自分は高天原にいるが私だと思ってこの八咫鏡を見てくださいとおっしゃり、それがご神体となって内宮に祀られていますね。 その時に邇邇芸命は稲穂も持って降りて来られ、日本の稲作の始まりとなりました。

そしてその、大事な稲を風雨から守るためにお祀りされているのが、この風宮様です。

ですが、別のお顔もお持ちです。

1200年、蒙古襲来の折、神風が吹きモンゴル帝国の船は転覆しましたが、その神風を起こしたのがこの神様です。 それまでは別宮でなかったのですが、この働きにより昇格されて別宮になられました。こちらにも古殿地があり、正宮遷宮の翌年替わられます。 5月の田植えの時と8月の刈り入れの時、お祭りがあります。

遥拝所があります。車いすの方やお年寄りなど、別宮のお参りができない方がここで遥拝されます。

忌火屋殿、神様のお食事を作っている所に来ました。神職の方々が、斎館から出て来られ ここで火を熾してお食事を整えられ、白い石が敷いてある場所に置いて、榊、塩で清めて御饌殿へ裏口から持って行かれます。

御厩(みうまや)には、皇室から贈られた神馬2頭いて、毎月1、11、21日の朝8時に正宮へ菊の御紋の衣装をつけてお参りします。神様が乗る馬です。

内宮に来ました。

正殿の棟持柱が役目を終えた後に、きれいに磨かれて宇治橋の鳥居に再利用されています。おはらい町方面から見て、手前の鳥居が外宮、奥の鳥居が内宮の柱です。 そして、さらに20年後には、関の追分、桑名の七里の渡し場の鳥居になります。

宇治橋を渡りますと、川の右手に杭が見えますね。上流から流木が来た時、宇治橋を傷めないように守るための杭で、木除杭と言います。

渡ってすぐの広場は神苑です。昔はここにも住居がありました。春と秋にはこちらでお神楽が行われます。 また、春の大阪場所が終わった後、奉納相撲があります。神苑では土俵入りの奉納があり、神宮会館では奉納大相撲が行われます。 神宮と相撲は関係があります。両国国技館の土俵の上には大きな屋根が釣り下がっていますよね。 これは、「吊り屋根」といい、神宮と同じ神明造りになっています。

五十鈴川へ下りる右手の石畳は、第五代将軍綱吉の母、桂昌院が寄贈されたものです。

瀧祭神(たきまつりのかみ)には社殿はありません。ここでも石がご神体となっています。そっと中を覗いてみてください。 とても変わった、渦を巻いたような石です。こういった、少し変わった石が神様の依代と考えられているようです。 五十鈴川の守り神ですが、今から天照大御神様にお参りに行きますという、 アポイントメントも取ってくださるそうです。「とりつぎさん」とも呼ばれています。ですので、正宮よりここへ先にお参りしてくださいね。 心の中で、住所、名前を唱えて天照大御神様への取次ぎをお願いしてください。

正殿前の建物は、御贄調舎(みにえちょうしゃ)と言います。 神宮で一番大切なお祭りは神嘗祭です。10月にあり、これの集大成が遷宮だと言われています。 神嘗祭はその年の新米を一番最初に天照大御神に食べていただくお祭りで、全国の各地から新米が供えられます。天皇からも贈られます。 その際、この場所で御饌都神である外宮の豊受大御神をお迎えし、アワビをととのえる儀式が行われます。

正殿の鰹木は10個で、千木は地面と平行になっていて(内削ぎ)、風穴は2つ半開いています。

御稲御倉(みしねのみくら)、外幣殿(げへいでん)は、近くで見られる唯一神明造のミニチュア版です。内宮外宮とも同じものがあります。 ご正殿には付けられている高欄がありませんが。

外幣殿には古くなった神宝が納められています。神宮徴古館でも神宝は展示されています。

別宮は、社殿が出来上がるのが遷宮の翌年になるので、翌年に移られます。摂社など109社には遷宮はないですが、 造替(ぞうたい)といって古くなったところだけ修理したり、40年に1度建て替えたりはしているそうです。

参集殿には能舞台があり、たまに一色能が上演されます。また、無料休憩所もあります。

松下幸之助さんが作ったお茶室があります。普段は公開していませんが、お茶会も開かれます。

宇治橋手前に写真スポットがあります。桜の時期は特にきれいです。

五十鈴川は、倭姫命がこの川で汚れた裾をあらわれたことから、御裳濯川(みもすそがわ)とも言います。

宇治橋の西詰北側二本目の擬宝珠(ぎぼし)の中には、宇治橋と橋を渡られる方の安全を祈って 「萬度麻(まんどぬさ)」というお札が納められています。

おかげ横丁野あそび棚で昼食を頂きました。

古市街道について

伊勢街道は、東海道から枝分かれして四日市の日永から三重県を南下しています。内宮が終点で18里(75キロ)の道のりです。 江戸時代は、東海道に次いで二番目交通量が多かったそうです。

内宮から外宮の5キロの道は、特に混み合い、伊勢古市斎宮街道と特別の名前が付けられました。 また、この道は魚の干物を鳥羽近辺から大阪へ売りに行く人も通りました。

見どころは、何と言っても麻吉旅館です。江戸時代創業当時のまま、今でも営業されています。

この時代、伊勢神宮には500万人の人がお参りされていました。当時の人口でいうと6人に1人の割合です。

現代で例えると、時間的、経済的に大変アメリカ合衆国に行くより大変でしたが、庶民はいろいろな方法でお参りをしました。 村々で、伊勢講という単位を作って代表者がお参りをするのが中心でしたが、 抜け参りというものもあり、大工道具などを持って親方に嘘をついてお参りに出かける人もいました。

そんな旅人はお金ないのですが、柄杓を持っているとそれが通行手形になり、関所を通れるだけでなく 街道沿いで施しを受けることもできました。

伊勢古市参宮街道資料館には、実際に使った幕末の大阪の柄杓が残っています。

外宮から、熊野古道伊勢路を宮川堤まで歩きました。宮川堤は江戸時代より「桜の渡し」と呼び親しまれていました。 川沿いには約1キロに渡り、桜並木があります。日本さくらの会「日本さくら名所100選」に選定されています。

伊勢市駅前の「五豊美」というお店では、三重県の地酒の利き酒ができ、気に入ったお酒は買い求めることもできます。

2018.3.31

Copyright © 2018 yamanohondana. All Rights Reserved.